米国経済学PhDの生活

一年間を踏まえての感想文

0. はじめに

出願ノウハウに関する記事はあふれているものの、実際の経済学のPhDの生活とはどのようなものなのかについては、あまり明らかにされてこなかったように思います。具体的には、「噂には聞くものの、結局普段どんなことをしているのかよくわからない。」、「最近悪い噂しか聞かないな。」、「そもそも留学を検討する際にイメージがつかめない。」という声をたくさん聞きました。そこで私の1年間の経験をもとに書いてみました。出願についての記事と合わせてご参考になればと思います。なお、 個別にいただく出願に関するご相談やご質問については、十分にお答えできる時間が取れないため、メールをいただいても対応できません。ご相談をいただくことは大変ありがたいことなのですが、まだまだ未熟な学生、調子に乗って全て引き受けていると本末転倒、本業が疎かになってしまうがゆえのこと、何卒ご理解いただければと思います。


0-1. 注意点

  • 読者として念頭に置いているのは、現在日本の経済学修士課程に在籍あるいは進学を検討していて、来年以降に米国の経済学PhDへの留学を検討されている方です。

  • 米国と書きましたが、カナダの大学などについては、共通点があるものと考えています。

  • あくまで自身の経験@MITに基づいた私見・感想に過ぎず、一般化できない情報も多々あると思いますので、その点を十分注意して、自己責任でご覧下さい。

  • 私の所属する、あるいは所属した、一切の機関の意見をも代表するものではありません。

  • 無断転載や模倣などはご遠慮ください。

  • 特に、意味が変わって伝わり誤解されることを避けるため、絶対に翻訳をしないでください

0-2. 扱う内容

  1. 自己紹介

  2. この記事の目的

  3. 授業

  4. リサーチアシスタント

  5. 研究

  6. 留学してよかったこと

0-3. 扱わない内容

  • 出願について: 出願についての記事をご覧ください。

  • 各大学の個別の事情** - ご自身で各大学の公式サイトから確認されるのが一番良いと思います。


1. 自己紹介

現在MITの経済学部で博士課程に所属していて、2020年9月から2年生です。以前は東京大学の経済学研究科にお世話になっており、東京大学の経済学部と修士号取得の間に、マッキンゼーにて一年ほど勤務をしていました。


2. この記事の目的

この記事を書こうと思った理由は、大きく二つあります。一つは、特にSNSにおいて、「経済学の闇」「博士課程の闇」と銘打った文章が大いに拡散され、それに乗じて日本語の情報にもなっている一方、その記事に呼応するような「かたや、こんないいこともあるよ」という文章は数も限られて、ほとんど日本語になっていないように思います。もちろん改善すべきポイントはたくさんある一方で、(日本語になっている)情報のバランスがとれていないことから、必要以上にdiscourageされてしまわないかという懸念を持っており、この記事が少しでも良いところをお伝えできれば、バランスの取れた情報の集合になるのではと考えました。

もう一つは、私が幸いにも、米国の博士課程において、周囲の方々のおかげで、素晴らしい経験をさせていただいていることにあります。もちろん一般化はできないと思いますが、この記事から、PhDの楽しい一面もイメージしてもらうことができればよいのかなと考えています。


3. 授業

MIT経済学部博士課程では、米国他大学の経済学博士課程と基本的には同様かと思いますが、最初の二年はコースワークと呼ばれる講義が中心、その後は本格的に研究に入っていきます。コースワークの中でも、博士課程の学生全員が履修する必修コア科目と、選択フィールド科目に分かれています。MITでは、必修コア科目は、ミクロ・マクロ・計量経済学からなります。大学によっては、数学が入ってきたり、経済史が入ってきたりするそうです。選択フィールド科目は、MITでは development, econometrics, finance, industrial organization, international, labor, macroeconomics, organizational, political economy, public finance and theoryなどがあります。これらの科目のリストからいくつかを選択して履修し、専門にしたい分野を決めていきます。なお、大学によっては、1年目の終わりや2年目の終わりに、プレリムと呼ばれる追加的な進級試験があるようです。こちらは各大学に問い合わせてください。

私は、一年目一学期は、コア科目は、前半は、統計学、ミクロ経済学1、動学最適化、後半は、応用計量経済学、ミクロ経済学2、経済成長論を履修しました。フィールド科目は、労働経済学1を選択しました。その中でも、コア科目のほとんどは、東京大学の経済学研究科修士課程で学んだことが基礎となっていて、より発展的な内容に集中して取り組むことができた一方で、フィールド科目は、日本で提供されているものとは趣旨が異なり大変意義深いものでした。具体的には、「ある経済学の特定の分野において研究を始めることができるレベルに学生を引き上げる」ことに主眼が置かれており、大量のリーディングや課題に格闘する毎日となりました。

一年目二学期は、コア科目は、前半は、ミクロ3(意思決定理論)、マクロ3(景気循環論)、後半は、ミクロ4(契約理論)、マクロ4(金融危機)を履修しました。学期を通して、コア科目の計量経済学とフィールド科目の労働経済学2を選択しました。どの講義も非常に良く準備されていて、楽しめるものでした。例えば2015年の労働経済学2については、どんな授業だったかをこちらからご覧になれます。

二年目は上級マクロ経済学、国際経済学、政治経済学、上級計量経済学などを履修予定です。

実はMITの授業のほとんどの科目が、年度はバラバラですが、公開されています。こちらをご覧ください。


4. リサーチアシスタント

本格的な研究に取り組む前に、コースワークでみっちり学ぶ、というのがスタイルなのですが、そうは言っても、一年目にはいくつか自身の研究につながることをしました。一つはリサーチアシスタントです。秋学期には、Josh Angrist教授という、計量経済、労働経済学を専門にする先生からコア科目の応用計量経済学とフィールド科目の労働経済学の授業で積極的に発言していたことを評価され、リサーチアシスタントをやらないかとオファーをいただきました。機械学習の手法が労働経済学の分析にどのように役立つか、というプロジェクトに加わりました。プロジェクトもさすが超一流の研究者、やるべきことが明確で、アイデアから実行までのサイクルが前職マッキンゼーと変わらないスピードで参考になります。また何よりも、距離近く研究の話ができるのは大変ありがたいことだと思っています。

夏からは、Daron Acemoglu教授、David Autor教授のプロジェクトにRAとして参画させていただいております。プロジェクトの中身を詳しくは明かせないのですが、どんなプロジェクトに取り組むか・どういう問い立てをするか・どう答えるか、という、全く最初のところから関わらせていただくことができて、非常にありがたいことだと思います。

MITでは、ティーチングアシスタントは通常、3年目以降に開始するようです。


5. 研究

最近一番時間をかけているのは、同級生との研究アイデアのディスカッションです。近年、経済学では、トピックに応じて用いる手法がかなり専門的かつ複合的になってきていて、一本の論文の中でも全ての分析を一人で行うことは困難を極め、共著でのプロジェクトが通例となってきました。同級生20人少しの中にも、似たような関心を持つ学生は数名おり、彼らと最近の論文や、それぞれのアイデアを持ち寄って、定期的にディスカッションを重ねています。

例えば、4人の同級生とはマクロ経済学、労働経済学、国際経済学(あるいは都市経済学)の境界の論文をピックアップして、5月から現在8月まで、毎週論文を輪読しています。それらの論文からヒントを得て、論文のアイデアに落とし、(夏休みですが)、MITの先生方にアイデアを聞いてもらって反応の良さそうなものだったり、我々が特に見込みを感じるものについて、プロジェクトとして、データ収集やモデル構築などを進めています。


6. 留学してよかったこと(個人的感想)

最後に、個人的に、北米経済学PhD課程に留学してよかったと感じる点をいくつかまとめてみます。繰り返しになりますが、あくまで個人の感想です。日本の博士課程の方が優れていることも多々あると思いますが、私はあえて、海外推しに全振りした感想を書いてみます。

1. 世界から集まる優秀な同世代の存在

経済学、その中でもマクロ経済学では特に顕著かもしれませんが、優秀な先輩たちが当然のように留学していくことから、やはり勉強や研究を国内に残って一人で進めるのは厳しいと感じていました。一方で、欧米のPhD課程には世界から優秀な層が集まってくることもあり、同じような熱量で勉強や研究に打ち込むことができる同世代の仲間ができます。寝食を忘れて没頭したり、社会の役に立ちたいから研究してるんだと熱弁を奮ったりが遠慮なくできるのは、周りに同じようなことをしている仲間がいる環境なのかと思います。アカデミックな仲間として共同で研究を進めていく仲間になるのはもちろん、一緒に人生のことを話したり、悩みを共有したりすることができる一生の仲間ができる、これだけでも、留学してよかったなと感じています。

2. 世界トップ研究者の存在

最近では特にミクロ系で現役世界トップの日本人経済学者が日本に帰ってきている例もいくつかあります。一方で、特に北米や英国の大学には、論文や教科書の著者としか認識できなかったような、トップクラスの研究者が、ゴロゴロいます。ノーベル賞を既に獲った、あるいは今から確実に獲るであろう研究をしている先生が周りにたくさんいます。こうやって文字通り、分野を切り開いてきたような研究者から、5,6年間直接的に薫陶を受けられるのは、「若いうちに超一流をみておけ」という、アカデミア外でも一般的なキャリアの鉄則にも通ずるところがあります。実際にRAをしてみると超一流の研究者がどう問いを立てて、アイデアにして、実行可能なプランに落とし込み、進めていくかが間近に見れました。また、自分のアイデアをぶつけると、最も関連のある研究はもちろん、古くは19世紀の論文から、経済学以外の研究、あるいは自身の進行中の研究の紹介まで、体系立ててアドバイスをくださるので、非常にありがたいと思っています。

3. 日本(あるいは地元)を客観的に見ることができる

中長期的に生活拠点を日本(あるいは出身国や地元など)の外に動かしてみることで、日本(あるいは出身国や地元など)を客観的に見ることができます。出羽守になるのは問題外ですが、やはり日本(あるいは出身国や地元など)で当たり前だと思っていたことが、世界では全く当たり前ではなく、日本(あるいは出身国や地元など)の良さや課題が浮き彫りになります。私の場合は、日本をさらに好きになることができました。なかなか言葉では伝えづらい感覚ですが、意外にも、留学してよかったことの上位にランクインします。

4. アカデミアに対するリスペクトが感じられる

Twitterでアウトリーチをすれば自称専門家からの誹謗中傷がくる、博士持ちを時給1000円で募集する、若手は無償で便利屋使いなど、日本に残れば、往々にして、自分が命をかけていることに対して、若いうちから無情な逆風に立ち向かうことになります。これは、あまり精神的によろしくないかもしれません。少なくとも北米PhDに打って出れば、PhD学生や、PhD取得者へは一定の(無条件ではないがある程度きちんとやっていれば)リスペクトがあり、若手だからといって便利屋使いされることはなく(使われたらRAとして十分な待遇が得られる)、博士課程の間に十分生活できるだけの給与が与えられ、博士取得後は日本の実質的には2~5倍くらいの待遇が待っています(とはいえ日本の生活環境にはなかなか捨てがたい魅力がありますね)。

5. 多様なロールモデルの存在

決定的な違いだと思います。必ずしも北米PhD課程の現状がベストではないにせよ(最近は多様性の欠如が指摘されている)、日本の経済学博士課程に比べれば、圧倒的にロールモデルはより多様です。例えば男女比。私の出身である東京大学の学部新入生のうち女性の割合は20%程度。欧米、中国、韓国、シンガポールといったよく比較の引き合いに出される国々の代表的な総合大学においては半数程度であるのに比べれば、東大の均一性は一目瞭然です。一時在籍した東京大学経済学研究科博士課程に至っては、その割合はさらに低下しています(データが見つからないのですが、私のオフィス部屋は全員日本人男性)。国際性、バックグラウンドの多様性、考え方、将来の進路など他の断面においても、多様性の観点では圧倒的に北米PhD課程に分があります。(ロールモデルの重要性を指摘する研究も出てきていますね)


7.おわりに

もちろん、出願、移住、コースワーク、ジョブマーケットをこなすことは、茨の道であることには変わりはありません。異国で厳しいプレッシャーにさらされるのは間違いがないでしょう。しかしながら、PhD留学は必ずしも悪いことだらけではなく、進路選択のオプションとして、ありだと思います。そんな観点から、この感想文が少しでも進路選択の役に立てば、何よりです。